思ってもみないことばかり。

40代で父親に。ボケ、大喜利、『思ってもみないこと』を書きつづっております。

生まれくるわが子のために、床にガラスの破片は、残せない。

 

2年弱使っていたスマホのガラスフィルムが割れてしまったので、新たに購入したのだが、たった3日で割れてしまった。
「この恨み晴らさでおくべきか」と思いアマゾンのレビューにでも投稿してやろうかと思ったのだが、気持ちがより荒んでしまいそうなので、それをやめサイレントクレーマーに徹することに決定した。

改めて、ミニマリストとして踏ん張っている私が、改めてガラスフィルムをもう一度買おうかどうか、というところで悩んだのだが、生まれくる我が子のことを考えたら割れたガラスの破片が万が一家の中で床に残り口に入れたら、と思うと『購入』の二文字しかない。
結局、別メーカーで同じ用な価格帯のものを買ったので、まるまる倍のお金が飛んでいってしまった。
これで『二度とその脆弱な品を販売したメーカーから物を買わない人間』がいっちょう出来上がりとなるのだ。失われた信頼性が戻ることは、もうないのである。
こうしてみるとこういったことは商売に限らず人間関係そのものなのだが、それも最近ではかなりシビアになっていないだろうか。
昔だったらオナラこいたくらいだったらアラアハハ、ウフフで済んでいたようなものだが、今ではオナラのあとの周りの感情としては「この人、こんなところでオナラをするんだから、そのうちここでウンコ漏らすんじゃないか」と、本人の常識や肛門括約筋への信頼が損なわれる時代である。
なにかと失敗が許容できないようになってきており、やり直しが効かない社会となりつつあるのである。
しかし、我々は人間であることはやめられない。
人を信頼して助け合うのが高度知的生命体である人間が人間であることの価値なのではないだろうか。
おためごかしでなく、本当に人と人とが手を取り合って支え合える社会とは、どのようなものなのか。

70億人みんな、夢で逢えたら、ということである。
現実世界では、ないパイを奪い合うために競争し、叩き合い、つぶしあい、そこで貧富の差ができているのが現状だ。
しかし、これが夢の中だったらそれがチャラ。各々自分が思うように過ごせるのである。ある人は真っ昼間からビール、ある人は国境関係なく空中浮遊、ある人はずっと眠ったまま。そこでは誰もが誰の言うことも聞かなくて良い。
そうしてやりたいことをやったあと、ふと思うことだろう。
「人と触れ合いたい」と。
しかし、夢の中で彼ら同士と出会っても、誰もがフリー。何もなく楽しく過ごせる。別に関わる必要がないのだ。
そこで、さらに出てくる思いが「なにかの制限の中で、人と想いを通じあわせたい」ということになる。この思いはまさに健全な現実社会もの。
そうして70億人が同時にの眼が朝、同時に開いたのなら、もう「私もサザエさんあなたもサザエさん」状態となり、周りを恐れることは一切ない。
言ってしまえば「本当の私、デビュー」と相成るのである。

一度失われた信頼を取り戻すのは至難の業、とよく言う。確かに、人を信頼するのはたやすくない。
しかし、私はそういうときこそ勇気を出し一歩前に出て、信頼するかしないかを天秤にかけられるようになるところから初めてみようか、と思う。
なのでまずは、前日に職場に置きっぱなしにしてしまった空の水筒に「小便で一度洗われる」などのいたずらをする人が職場にいるかいないかの天秤を、いない方の秤に重りを載せてみよう、と心に誓うのである。