思ってもみないことばかり。

「ほめる、認める、肯定する。」をモットーに、何もないおっさんになった自分が大喜利や日々のことを書きつづることこで変化していくさまを記録するブログ

『鍋奉行』

 

すっかり鍋奉行はその姿を見せなくなった今日このごろだが、皆さんのおうちは鍋奉行のいるおうちだろうか。
オイラは家に鍋奉行がいた時期もなく、未だにその存在はテレビや雑誌の中だけの存在であって、それはいわば夢まぼろしのようにも思っている。

なので、鍋奉行がどんなものなのかは想像することしかできず、間違っていたらお許しいただきたい。

まず、きっと奉行という役職がついているので、裁きをするのだろう。
豚肉は『釜茹での刑』、人参もネギも『釜茹での刑』と、罪を償う器具が釜しかないかのように一つの刑に固執し、刑期を『茹で上がり具合』によって吟味、やわらかくなった食材たちは刑期を終えて、晴れてまた人の役に立つために、胃袋への釈放を赦される。

しかし、気になるのはその罪状だ。
何を持ってネギや人参は釜茹での刑に処されるのだろうか。
奉行はこう答えるだろう。
「なに鍋であろうともパクチーを常習的に仲間外れにした罪なり」と。

鍋奉行はさらに、パクチーを鍋の食材として無視し続けた人間も裁くことだろう。
最後に出来上がった鍋にパクチーを乗っけ、そしてそれを「パクチー鍋の刑」だと言い渡し、食べることによって償わせようとする。
結局、鍋奉行も本職の奉行ではないので「殴ったヤツと仲良くすることで償え」という昭和大全開の暴論に達してしまったりする。
これでは、春先にかけて鍋を囲む人がいなくなってしまうのも仕方ない。
つまり、副業の意気込みで鍋奉行をやるから片手間になり、批判が相次ぎ、その姿を現代に見せなくなってしまったのではないか。

パクチーにはパクチーの輝けるところが必ずある。
鍋奉行にも、本気でやれる、鍋奉行の輝けるところがあるはずだ。
これからの時代は、責任がともなう裁くという行為ができる人間を育てるのが社会において必要になるかもしれない。
まずは『ちゃんこダイニング若』あたりで、本職として鍋奉行が雇われ、ひとテーブルにひと奉行、というのが当たり前になる日を待ちわびてみたいものである。