思ってもみないことばかり。

「ほめる、認める、肯定する。」をモットーに、何もないおっさんになった自分が大喜利や日々のことを書きつづることこで変化していくさまを記録するブログ

『モノマネ』


何気ないタイミングでモノマネをしてみると、思いのほか似てしまうことがある。
しかし「人に見せたい」と思って誰かにやって見せると、そんなにクオリティ高く再現ができなかったりする。
これが、モノマネを生業としてないものの特有のもどかしさである。
とはいえ、「あ、これうまくマネれてるな」と人に見せたくなったときのために、常日頃から失敗しても失敗しても笑ってくれる優しい恋人や友人がいる環境の整備はしておきたいものだ。

それにしてもテレビ番組でのモノマネ芸というのは、似てないな、と思うことが多々ある。
オイラの感性の問題なのだろうか、テレビの前の芸人が似ているかどうかを相方にも聞いてみるが、同じような感覚だったりする。
彼らも、恋人や友人にモノマネを見てくれる人がいるのだろうが、その人たちに甘やかされているのだろうか?
いや、それを生業としているひとたちなのだから、人一倍厳しい審査をしてもらっていることだろう。
ではなぜ、オイラたちはそのモノマネ芸を似ていないと感じ、時間の無駄に感じてしまうのだろうか?

それは、オイラたちが求めているモノが間違っているのである。
そもそもモノマネ番組は、誰が笑い「だけ」の番組といったのだろう。たしかに、『爆笑モノマネ〜』とタイトルに付くことは有るが、爆笑「だけ」と宣ってはいない。
ああいった番組には、爆笑とともに「『恥ずかしさ』の感情を動かす」という裏テーマが、実は組み込まれているようだ。
モノマネ番組というのは、普段恥ずかしい思いをしない人が疑似体験として安全なところで共感性羞恥心を呼び起こす。
この形のエンターテインメントは、実は心のどこかでみんなが求めているからこそ数十年続いているのである。
似ていないモノマネを見たときの「おいおいおい・・・それ、テレビでやることなのか・・・?うわうわうわ」っていう気持ちも、満員電車で揺られながら家と職場を往復してやっと家に帰ってきたお父さんにも、必要な感情なのだ。
この文化はなくすべきではないだろう。

あるいは、その似てない部分を無謀にも「これだったらオレのほうがうまくできるわ!」と言わせてしまう、放送側の巧みな心象操作の、噛ませ犬的な部分でもあるのかも知れない。
そんな自信がある人は、録画をしてテレビの後ろからそのモノマネ芸人が手ぶりをしているところを声マネだけでもやってみよう。
そうすることで自分がいかに似ておらず、モノマネ芸人の一生懸命さ、クオリティの高さを知ることができる。
つまりは、モノマネ番組には「あんた、身の程も知らないで適当なことをいって、調子に乗っちゃいけないよ」という教材的な意味合いも含まれるということである。