思ってもみないことばかり。

「ほめる、認める、肯定する。」をモットーに、何もないおっさんになった自分が大喜利や日々のことを書きつづることこで変化していくさまを記録するブログ

『釣り』

 
趣味問題を一つ。今回は釣りについて考えたい。
ほぼほぼ無趣味のオイラが長らく気になっている趣味がある。それが釣りだ。
良いところをあげれば、老若男女誰でもいつでも始められ、釣りができる場所も多種多様、隣の県くらいまで足を伸ばして釣りついでに温泉もなんていう小旅行にもなり、天気とニュースの話以外にも話題が増えて人と仲良くなれるかもしれないことである。
しかし、ちょっと待って欲しい。
釣りとは業の深い趣味でもあるのだ。
まず釣り針にてイソメをブッ刺し、針がかかった魚を引きずり回し、釣った魚から厳格な忍者の里のような抜けにくくしたカエシのついた釣り針を抜き、魚にしたら火傷をするような温度の人間の手で触られ、海に放られた魚は弱りきって食われて死んだり、死なずとも弱って数ヶ月なりのその生涯を全うするのである。人間の遊びで。
もしかすると、近い将来には動物愛護団体も魚類も対象にするのではないだろうか。
 
珍しく真面目なようなことを書いてしまったが、それにしても釣りというのは魔力めいたものがある。
ほとんどやったことがないのに釣りという行為のそのバリエーションの多さから、ハマれば楽しいというのが今張られた道徳の壁越しにも伝わってくる。
 
あとの釣りをやるかどうかは、釣りに対して関わる人次第になる。
例えば釣りに詳しく教えてもらえる人がいたとして、その人の人格、釣りに対する姿勢、女の趣味etc、、、それがオイラの持っている道徳の薄い壁を壊してくれるかどうかで、オイラが「仕掛けにかかって、マヌケな魚だね」となるか、はたまた鯨を愛すると言われるシーシェパードのような団体に所属し「魚が強制口ピアスされてるぞ、泣けるし震える」となるかが決まるのだ。
 
釣りには上記のような覚悟が必要だ。
しかし、仮にオイラに友人が多くてみんなが「カレイ釣りまくろうぜ」というなら覚悟がなくてもその魔力に引き寄せられて釣り糸を海にぶん投げていることだろう。
もっとも、現在、そもそも会える友人が片手で数えられるくらいなので、しばらくはお魚をかわいそう、と思っていられると思うが、友達が増え、群れを成すとまた別のろくでもない考えが発生しそうだ。
孤独は、地球にやさしい。