思ってもみないことばかり。

「ほめる、認める、肯定する。」をモットーに、何もないおっさんになった自分が大喜利や日々のことを書きつづることこで変化していくさまを記録するブログ

『高齢者』

 
これはオイラに向けても言っているのだが、人は歳を重ねた分だけ人生を耐え抜いたという価値がある。
歳をとればとるほど、地球の重力に耐え続けた年月に称賛されるべきなのだ。
しかし、ここで出てくるのが、社会的評価だ。これがあるせいで、爺さんになったところで、商店街の評価は思うようにされない。
道を歩いているだけで額を擦り付けるようなことをされず、「お代はいただきません!」と一度も入ったこともない高級寿司屋で無銭飲食することもできず、むしろたまに背中に「年金ドロボー」って書いた紙を貼られることのほうが可能性として高いくらいになってしまうのだ。お国から払った分に応じて決まった額しかもらっていなくとも。
社会的評価があれば、同じ爺さんになっても周りの対応は全然違う。
国民栄誉賞なんか受けてる爺さんだった場合。
毎日、道行く人に感激のあまり涙を流され、家に帰ると誰がやったのかお風呂は薔薇で埋め尽くされ、ピンポン押されて出てみるとさっき寄った八百屋さんが「サービスのほうれん草、渡し忘れました」と片道2kgの道をそれだけ渡しに来られたりして、つまり社会が認めてくれるということは、まわりに好かれ気遣われ、深呼吸をすることが多くでき、穏やかに暮らせるということである。
 
しかし。どんな人も同じく空気を吸い、吐き、肉体の老いと昼夜闘っている。そういう意味では同じく価値のある存在なのだ。
では、社会的評価をされない人間はどうしたら良いのか?それは、もう古から今に伝えられていることをすることだ。
そう、筋トレだ。
筋肉という見た目が努力の結果の固まりなら、例え狙っている男の部屋に別れさせたい女と質の違う長い髪の毛を3、4本バラまくという仕事を四十年勤め上げて、「何だったんだろう、俺の人生」というような想いを持つ仕事であっても、60代で黒光りマッチョであるなら、人は一目置くことだろう。金をたくさん稼ぐ、とか、人の役に立つ、というベクトルとは違った、人の中に流れる、原始的な憧れなのだ。
 
他にも、いつも今現在の福山雅治の姿でずっとモノマネをしつづける、というキャラ付けをするのも市民権を得られそうで、商店街を歩き続けていればそのうち顔見知りになった福山ファンの八百屋からネギのおまけくらいくれそうだが、整形費用と町のボーカルレッスンで軽く3桁が飛んでいってしまい、結局そんな金はない、となる。結局それをやれるのは社会的評価が高いことでお金がある人間であり、良かれ悪かれさらなるブーストがかかるのだ。
評価のない人間は、福山の何番煎じかのモノマネをコストを意識して1000円カットでいかに福山っぽくなるか、お風呂場とその外を行き来しながら福山っぽい声の出し方をしたりのトライ・アンド・エラーでやり続けるしか、商店街の人気者にはなれない。
 
しかし、筋トレにせよ、似てない福山にせよ、なんにせよ継続だ。
しかし、意味のないことはしづらいのなら、お店に交渉してのボランティアのチンドン屋が良い。高齢者も目立てて、お店も宣伝してwin-winなのだ。
社会的評価のない人にこそ、チンドン屋でお店の宣伝をやってもらって、存分にありがたがられていただきたいものである。