思ってもみないことばかり。

「ほめる、認める、肯定する。」をモットーに、何もないおっさんになった自分が大喜利や日々のことを書きつづることこで変化していくさまを記録するブログ

『応援』


目指せ、究極のgiver。
つまり、人に与えることができる人。応援が、そのポピュラーな一形態である。
自分を、他人を、応援する応援団を私設で作りたい気持ちはたまに溢れ出てくる。
応援は、楽しい。長年苦痛に耐えて頑張ってきた人に対して、「頑張れ」と、外野から言葉を発するだけで、その勝ち負けに気持ちを乗せられるのである。
もう一つ、人を応援するときに簡単な方法としては、その人に期待して奢ったり、料理を振る舞ったりして、相手にものを食べさせることである。
前者は金銭的なダメージはあるが、やりようによっては効果がある場合があるだろう。
しかし、問題になる場合が多いのは後者だ。
「たくさん食べんしゃい」と親戚の家で、あるいはお世話になっている近所のおじさんの家などで、良かれと思って作られた唐揚げが、自分にとって全くもって不味い場合などである。そのことをさらにいえば、それが大量にそこにあり、残さず食べないとハの字眉毛を作って悲しむおばさんが、壁半分、その顔を台所の方からのぞかせるところも、である。
応援というのは、本当に相手のエンジンを動かすガソリンになるかという点では、一筋縄にはいかない。
ならば、どう応援すれば、より相手の身になる応援なのか。
そのキーとなるのは、好きな人からの応援、である。
好きな人からの応援だったら、どんな蚊の鳴くようなか細い声で「頑張って」と言われても、力が出るもの。
なので、人のエネルギーになる応援をするにはまず、好かれるようになろう。
なにも異性的なものでなくても良い。おじさんは、どんなことにも励まし、受け止められる包容力のあるおじさんに。おばさんは、いつも楽しげで元気良く、全力で肯定するおばさんに。おじいさんは山へ芝刈りに行きそうなおじいさんに。女子高生はなるべく制服姿で女子高生らしく。
そうしていれば、野球はホームラン、サッカーはハットトリック、研究者はガン細胞のみ死滅させる薬の開発に成功、ホームレスはダンボールアートで社会復帰したりするのだ。

その人を応援したいくらいの好意を持つなら、応援して効果のある人間になることが肝要だ。
オイラたちの応援道は、まだ始まったばかりだ。