思ってもみないことばかり。

「ほめる、認める、肯定する。」をモットーに、何もないおっさんになった自分が大喜利や日々のことを書きつづることこで変化していくさまを記録するブログ

『シックスセンス』


見えないものを見る、というのは努力が必要だ。
知り合いから幽霊を見たことがある、と話されたことがある。
なんでも昔、旅行中に心霊スポットに行ったとき、帰り際に乗っていた車の窓に手形をベットリとつけられたそうだ。
指紋がついていたなら現代科学で誰のものなのか、解明するとまたオカルトが科学と近くなることだろう。

さて、オイラは幽霊など見えない。
また、「ここはどこ?私はだあれ?」という感じが日常的に起こったりする、ファイブセンスまでもが危うい人間であるが、今気になっていることが一つある。
長年、取れることなく残る、左肩こりだ。
左肩のある一点が非常に重く、そこから広がって肩と首にまでその重だるさがある。
おそらく、そこになにかが乗っていると思うのだが、それの正体を見てみたい。
たぶんそこにいるのは、ご先祖さまの中でつま先立ちでこの狭い左肩の一点に集中できるような生前に足の指が筋肉おばけだった幽霊か、唐傘おばけが履いてるゲタに力をかけているのかな、と予測する。
また、先程のご先祖さまが、親指一点でオイラの肩に乗りその頭頂部にまた別のご先祖様が親指一点で乗り、と上に何人も重なっている可能性も考えられる。

そういった見えないものを見るためには何が必要なのかわからない。
このままでは、ゴーストバスターズへの就職の道は閉ざされるし、いつも相談に乗ってくれる精神科医が実は死んていてそれを教えてあげる、といったシチュエーションに巡り合うこともできない。
そう、ゴーストが見れないオイラは、官能的なろくろ回しの後に死なれた愛する人ともう絶対に会うことができないのだ。

しかし、第六感は疲れる。すぐそこに親戚のおばちゃんが来ているのがわかるかもしれない。数年前に死んだカメ吉がその辺を歩いていたり、さっき小屋で食べた生牡蠣の霊がそのノロウイルスの霊とともにさっきお腹を下したトイレから、出没しているのがわかるのかもしれない。
それが嫌だな、疲れるな、と思ったときは『セブンセンス』を発揮させて人生をいい方向へ持っていこう。
金になる人間を見分ける力の発揮で、親戚のおばちゃんたちが決して近寄ることのできない、聖域を、金の力で作ることが、第六感を上手に使うことができる一つのコツなのである。