思ってもみないことばかり。

「ほめる、認める、肯定する。」をモットーに、何もないおっさんになった自分が大喜利や日々のことを書きつづることこで変化していくさまを記録するブログ

『メガネ』


始業式でメガネをかけている人間がまずドキドキするのは、そのクラスの不良に『ハカセ』と呼ばれるか『メガネ』とよばれるようになるか、ということである。
その不良に、先に『ハカセ』と呼ばれる眼鏡の親友がいた場合、そのポストを奪い取るのは、難しい。
そんなこんなで、『メガネ』のまま卒業したあとは、大体の人間はそこで世の中の眼鏡の本当の使われ方を知る。
オシャレだ。
フレームをチタンにしたり、眼鏡を胸元に挟んだり、伊達メガネにしたりなどで、異性の気を引こうとする。
運良くメガネ好きな女子などに辺ればラッキー、という目算なのだろう。成人にもなれば頭も回る。
しかし、もっと眼鏡は泥臭いものなはずだ。
もっと、バイオレンスなもののはずだ。

そう、眼鏡とは、古くは額にかけて探すもの、チンピラにストレートを顔面にぶち込まれて壊れてるもの、である。
昭和の時代から令和現在でも、まだ必要な行為なのだ。
やはり眼鏡をおでこにかけての「メガネ、メガネ」こそ、眼鏡が眼鏡であるためにされなくてはいけないことだろう。
なぜなら、この世にいるどこかのおじいさんは、眼鏡を探しながらじゃないと歩行もせずに布団で寝てばかり、ということが考えられるからだ。
メガネを探しながらであれば、それに夢中になり、目の前がぼんやりしていても、その必死さで昔、内縁の妻だった女性のところまでたどり着いてしまうこともあり、そこにまた、ドラマが生まれる。

昨今、路地裏でチンピラに殴られることも少なくなってしまったらしい。
眼鏡が割れてフラフラ繁華街を歩くことで、自転車に惹かれそうになったり、買い物かごを持った奥さん連中にヒソヒソうわさ話をされたり、そんなことが巻き怒らなくなったなら、良い世の中になったのはうれしいが、なぜだか少し、寂しい。