思ってもみないことばかり。

「ほめる、認める、肯定する。」をモットーに、何もないおっさんになった自分が大喜利や日々のことを書きつづることこで変化していくさまを記録するブログ

『見逃し』


9回の裏、応援している野球チームが3-0で負けているとき、「ああ、今日は負けかな」と、生理現象であるトイレを優先すると、その間に起こった逆転ホームランを見逃してしまうことがある。
人は、しばしば、大事なことを見逃す。
好きなタレントが出演する生放送を全然仲良くなかったクラスメイトからの急な食事の誘いで見逃したり、「終電がなくなっちゃったね・・・」という二人でご飯を食べた異性のサインを見逃してタクシーで帰ったり、厳しいメンツの中で逆転のリーチをかけ「まさかこのメンツでイッパツで当り牌は出ないだろう」と天を仰いでいて、視線を河に移すとすでに下家から出てたり。
見逃しは、必然的に起こる。
また、『見逃す』という言葉は、こちらから和えてそうする、という意味もある。
例えば、あなたは熱烈な講義をしているとき、話を聞いている人オナラをしたのを見逃したことはないだろうか。
その気まずさと、自分の熱弁を振るいたい欲で、見逃しを起こしてしまっているのだ。
しかし、逆に拾ってあげないといけない場合もある。

それは、オナラアーティストの場合だ。
その場その状況で、『オナラをするとどういう反応が起こるか』という、人の心の変化を追求した、そんな系統のヤツらだ。
そういう人たちは、一度見逃すと、アートとして成立しないと思い込み、その場で何回もこきまくる可能性がある。
3回も4回もオナラをこかれて、果たして我々は平然としていられるのだろうか。

野球の試合は見逃しの三振という悲しい結末で試合が終わることもある。
普段注意しやすいゲップなども、時と場合により見逃してしまう状況もある。
そんな見逃しが起こりうること、そしてそれが致命傷になりかねないことを、肝に銘じて生活してほしい。