思ってもみないことばかり。

「ほめる、認める、肯定する。」をモットーに、何もないおっさんになった自分が大喜利や日々のことを書きつづることこで変化していくさまを記録するブログ

『カラオケ』

 
誰も人の歌を聞いていない。
人が歌っている間は次に自分が歌いたい曲をデンモクでゆっくりと探し、入れ終わったらスマホをガン見して、曲が終わるのを態度に表さずに待つ。
それがカラオケという、普段住宅街の一アパートで隣に迷惑をかけないで暮らそうとして極力大きな声を出さない我々のストレス解消の場なのだ。
ちなみにオイラは、人が歌っている時は、その歌の詩を読むようにしている。
アーティストの皆さんは、みな詩人。
62円の値打ちしかないラブレターだの、サブイボ立てたりだの、歌に乗れなくてもその表現方法が心にガンガン響くことがあるので、その歌詞を見ているのも、自分がリンダリンダを熱唱する次に面白い。
とまあ、オイラの周りでは十中八九人の歌を聞いておらず、通勤ラッシュ時のトイレ待ちのように前の人には早く終わってもらいたいと思っているだろう諸氏ばかりなのだが、なんだか女子高生くらいの年齢の子たちには一日中カラオケにいて、さらにはオイラにとってそれを移動させる時に触ったことがあるだけのマラカスで、他人が歌っている曲に合わせて振って盛り上がりまくれるのも人いるようだ。
 
彼女たちにとって、オイラのような中島みゆき全般とアンジェラ・アキの「手紙〜拝啓 十五の君へ」で泣くような大人は別種の生き物なのである。
 
そんなオイラも、カラオケでデンモクから目を離すであろう、部屋の中で生で見たいものがある。
それは、『オタ芸』だ。
彼らのあのリズムと、推しに見て欲しいからなのか大振りな動き、そして弧を描き残像残るサイリウムの軌道・・・
笑顔かつエネルギッシュに行われるその行為に、オイラも思わず歌っている人とその周りの彼らをガン見てしまうだろう。
オタ芸をする人のパワフルさはその部屋一帯をポジティブなオーラで包むに違いない。
しかし結局のところ、歌っている人もオタ芸をしている人がセットになってなくてはならないのだから、オタ芸をしてくれる曲選びか、さらにはその歌う人が推されなければならない。
デンモクから顔をあげてもらうには、まずはオタ芸をする人の心を掴むことからなのである。
カラオケ2.0、3.0はオタ芸する人をいかに横につけて一曲ごと人目を集めるか。
あるいは、己自身がオタ芸を身につけられるか、ということにかかっているのかもしれない。
カラオケを歌う姿勢も日々、変わり続けるのである。