思ってもみないことばかり。

「ほめる、認める、肯定する。」をモットーに、何もないおっさんになった自分が大喜利や日々のことを書きつづることこで変化していくさまを記録するブログ

『マニュアル』

マニュアルとは、試行錯誤の結晶である。
例えば、バスの運転手が予定時刻を大幅に遅れても謝罪がないのも、その熟成されたマニュアルに従っているのだろう。バスの遅れを謝罪すれば運転手はそこはかとない罪悪感により眠れない夜が増え、そのせいでどんどんバス運転手は去っていく。ひいては遅刻を謝らない方が会社の存続につながる、という判断があったに違いない。
おそらく、バスが遅れて謝った場合もあったのだろうが、退職率があがってしまえば、社長はいつの間にか『毎日銭湯でサウナに入るのが楽しみの人』から『半額のチーチクを狙って店員の値下げ札をウロウロしながら待つ人』に変化することは想像に難くない。
マニュアルというダイヤモンドのような打ち破られない、強固な約束事があるから、社長は社長としてサウナの温度にいちゃもんをつけられるのである。

しかし、お分かりの通り、世にはマニュアルに収まらない人もいる。言われたことや決められたことが守れず、自分なりのやり方でそれをやると、効率が良くても煙たがられてしまうことがある。
そういう人は、このマニュアル社会の中では生きづらいことだろう。
その場合の一つの生き方は、路上芸人である。
誰かが決めたマニュアルに従うことなく、自分を人に見てもらいたいという強い思いを持つことで、自分の身体を鍛錬し、金銭を得て生活する。それも素晴らしい生き方だ。
オイラもそういう生活に憧れはある。たまに公園で見かける、あの鍛えられたしなやかな身体で、笑顔でパフォーマンスをする。
オイラも、その彼らの自由な雰囲気から路上でパフォーマンスをしたい、という気になってくる。
しかし、腹のぜい肉も年々嵩が増していくオイラが路上でお金を稼ぐために炎のついた棒を回したり、バランスよく積み上げられた椅子の上に乗るような、そんな真似はできるとは思えない。目もかすみ始めたオイラには、危険すぎるのだ。
そこで目をつけたのは、『全身タイツを身につけてずっと止まる人』である。
もちろん、ずっと止まっているのは大変だろうけど、危険度が少ないのが良い。自転車に乗っていてもいつも道路わきに生える木の枝が目に刺さらないかを心配しているオイラにとって、例えば剣を丸ごと飲み込むような危険な大道芸は剣先が唇に触れただけで心臓の鼓動を弱らせ、全身を衰弱させ、そのうちに掛け軸のそばの生花が視界にチラチラと入りながら水差しを横においた布団に寝込ませることだろう。
なので、オイラは、全身タイツを着て、止まる。
それが、このマニュアル社会から解き放たれて自由になる方法のひとつの形式なのだとしたら、その微動だにしない自由を表すこそが、この資本主義の中で目まぐるしく変化する世の中に対するアンチテーゼであり、オイラなりの試行錯誤の結果となるのである。