思ってもみないことばかり。

「ほめる、認める、肯定する。」をモットーに、何もないおっさんになった自分が大喜利や日々のことを書きつづることこで変化していくさまを記録するブログ

『明鏡止水』

 

生きている限り、追い求めることになるものが、『明鏡止水』の心である。
澄みきった心で世の中の全部を認めたい、頭の中が常に考えることで埋め尽くされている現代人は、いつかはこのような心になりたいはずだ。
例えば、バスに乗って乗り継ぐための電車に間に合わなさそうなとき、乗降する人にもどかしさを感じるだろう。何故、人が駅の一つ前の停留所で降りるのか疑問に思うこともあるはずだ。そんなときに、『明鏡止水』の澄みきった心で、事象を捉えられれば、ただ、気持ちの良いことの連続しか起こっていないことになる。
バスの駅が十連続でお客が乗降しても、電車が2本遅れても、その瞳は澄んでいるのだ。

かく言うオイラは全然その境地には達していない。
今までで一番明鏡止水に近づいたのは、重労働の割に賃金が少ない工場の仕事を辞めたあとだろうか。
あのときは何にも代えがたいくらい、気持ちが澄み切っていた。明日、仕事に行かなくて良い、それだけが頭の中にはさんさんと輝いていたのである。
それからその後ずっと、また考え事で今日まで埋まってしまうことが多い。
しかし、オイラが爺さんになって死ぬ頃までには、もっと『明鏡止水』の気持ちを持てるかもしれない。
しかし、現実的には、ずっとその状態になっている可能性は低いと思われる。
今日の頭の中は明鏡止水、今日は人生の後悔、今日は団地の掃除当番・・・と数日に一回来るかどうかになることだろう。
タイミングよく、その人生の満足度が高いであろう、『明鏡止水の日』のタイミングで、あの世に召されることを、流れ星がきたら願っていこうと思った次第である。