思ってもみないことばかり。

「ほめる、認める、肯定する。」をモットーに、何もないおっさんになった自分が大喜利や日々のことを書きつづることこで変化していくさまを記録するブログ

『トリック』


一世一代のトリックは、中学校のときであった。
不良少年たちの仲間に入れられそうだったオイラ。
彼らがオイラの家に寄ろうとするところを、たむろ場所にされてはまずいと考えた。
そこで、引っ越したことを言ってなかったのをいいことに、その借家のドアをガチャガチャやって、「今誰もいないな、鍵もないんだよ」と言って、自分の家の敷居をまたがせなかった。
少し奥を覗けば、家具などもないすっからかんの家の中、だ。彼らが奥を見ないと踏み、薄氷を踏むような心持でトリックを使ったのである。
このときほど緊張したことはあとにも先にもない。
中2の春のことだ。

というわけで、トリックとはむちゃをやることだと認識している。
推理小説を見ても、刑事もののドラマをみても、やれ女装してみたり、屋敷の中を走り回ってみたり、鏡の位置をずらしてみたり。
「気づかれたらどんな言い訳すればいいんだ」っていう胆の座ったやり方ばかり。
そう、そもそも物語の中でのトリックが使われるのは殺人に関することばかりで、そもそも殺人自体が自体常軌を逸している。
だから、トリックはその常軌を逸している状態とつながりを持っているのだろう。途中で「何やってんのかな、俺」とはならないのだ。
しかし、殺人前の計画時点で常軌を逸している場合、ちゃんと一般人目線はできてるのだろうか?
たとえば、狂言首吊り自殺をさせてそのまま殺す、ってのをやってるときに首吊りをさせられてるほうが意外と足着いちゃうってことも、結構多いんじゃないかと考えられる。常軌を逸したままだと、常軌を逸した人しか想像できず、そのへんの詰めが甘くなるのではないか。
また、その計画を立ててから実行するまでの2週間なり3週間なり、常軌を逸したままだと目が血走ったり、ご飯のとき食べ物を必要以上にこぼしたり、立ってした小便が便器に入らない、座ってしたうんこも便器に入らなかったりして、そこからお母さんに殺人計画がバレる可能性もある。
たとえ人を殺さなくても、何度もトイレを掃除する母の目に涙を浮かべさせるは許されない。
常軌を逸した排泄行為で母が常軌を逸したらどうするというのだ。

オイラが小説を書くならやってみたいトリックというのがある。
小林幸子的な人のコンサートで観客から顔が見えないくらいのドでかいド派手衣装を着て小林幸子的な人が歌い、実はそこで歌っているのは美川憲一的な人で、小林幸子的な人は別の場所でふなっしー的なきぐるみの中に入って悪人を水攻めしてました、みたいなトリックを使ったような話や、手足を縛られた状態の主人公が宙吊りになった燃える箱の中から出てくる過程を事細かに記した小説も、やりたい。