思ってもみないことばかり。

「ほめる、認める、肯定する。」をモットーに、何もないおっさんになった自分が大喜利や日々のことを書きつづることこで変化していくさまを記録するブログ

『比較』


同じ商品は安い方が良い。
スーパーの紙袋に入っている焼き芋も、同じ値段なら大きい方がいいに決まっている。焼き芋はたまに2本入りすらあったりする。
人は、呼吸をするかの如く、何かと何かを比較している。
アサヒ、サッポロ、キリン、サントリーのビールを比較しながら飲み「この間はこんな味じゃなかったぞ」と自分の体調をその時と比較し、眼の前にある野菜炒めのどの肉の切れ端の大きさが今日飲んでいるビールの甘さを活かし切るかを比較しているのである。
ビールの味はその日の体調によって変わるので、そのものの比較だけでは意味をなさない。比較が比較を産み、最終的には夢の中の夢のようなビールが一番旨い、ということになるのである。

つまり、比較とは生きるために有利になろうとする本能的なものであるが、するときのコツというものがある。
それは、『自分はいないことにする』こと、無にするということである。
徹底的に自分のことを棚に上げるのだ。
人との比較をすることは『簡単に不幸になれるもの』であり、自分と人とを比較して、優越感に浸ることはできるが、幸せになることはできない。
幸せとは、人との比較の先に待っていないものなのである。
なので、架空の人物『マサノリくん』などを設定して、SNSの某やら、モデルやらと比較することが良いと思われる。
マサノリくんと比較して、腰のクビレが細い。
マサノリくんと比較して、ラグジュアリーな体験してる。
マサノリくんと比較して、友達もきらびやか。
決して自分と比較してはいけない。
すべてのことは、マサノリくんに受け止めてもらおう。

そうした毎日を送っていると、さすがにマサノリくんに情も湧き、かわいそうになってくることもあるだろう。

その時は、マサノリくんを木で彫って、机に飾って、カプセルトイで出てきた猫ちゃん用のお帽子などをプレゼントおこう。
彼が、すべての負の感情を受け止めてくれている、仏様のようなものになっていくのだ。
木彫りで具現化することで、インフルエンサーへの嫉妬の感情を浄化してくれるのである。

そうして、無宗教でも仏様のような物を持つ人たちが増えて行き、宗教のように広がっていく。心の安寧が、進み、それはいつしかネオ仏教になるのだ。
木彫りのマサノリくんがうまく彫れなくても、安心していい。
その出来が良くない木彫りの物体だからこそ、ネットのキラキラ生活をしている人間との比較したときに、おかしみやバカバカしさが生まれ、比較地獄から救われるのである。