思ってもみないことばかり。

「ほめる、認める、肯定する。」をモットーに、何もないおっさんになった自分が大喜利や日々のことを書きつづることこで変化していくさまを記録するブログ

『万が一』


万が一、生きてりゃ良いことあるかも、と思い生きている。
死ねないからこその慰めであろう。なにしろ、良いことがあるのが万が一程度なのである。
年にしておよそ27年。その間の1日。その10000分の1のために、パワハラ上司の言うことを聞き、傘をもっていないタイミングで雨にやられ、虫歯を何度も治すのである。

また、万が一、という言葉は可能性が低いときに使うが、たびたびネガティブなことに使われる。
例えば、「万が一、初キッスで相手の口が臭かったら」とか「万が一、ひまわりの種を食べてしまって、ケツから花が咲いたら」とか「万が一、子どもがオイラに似てしまったら」。不安は世の中からなくなりはしない。それが故に、保険会社はなくならない。みな安心したいのだ。

ちなみに、オイラが一番考えている「万が一」は、『地獄があること』である。
『死後の魂は大きな集合体に帰る説』を推しているオイラだが、万が一地獄があったら、日々過ごしている中でしてしまう恥ずべき行為が、地獄へ行くポイントを貯めてしまわないがために、電車などで空いてる席に座ってはお年寄りが乗ってきたら席を譲ることを、通勤時にせっせとしている。
なぜ座ってるかと言うと、これも万が一席を譲らない人が座るのを先に防ぐ目的だ。たまにそのまま職場についても何ら恥じることはない。
他にも、万が一運転している人が直射日光で歩行者が見えないことを考え、一緒のタイミングで渡っている小学生と同じく身体の大きいオイラが手を上げて横断歩道を渡ったり、万が一誰かが大切なハンカチなどの落とし物をしないか足元に目を配り、いつでも「落としましたよ」と言える準備をしているのだ。

万が一この世にいる間に良いことがなくても、万が一あった場合のあの世では良いことがあってほしい。

しかしそれはそもそも、万が一死ぬことがあるのであれば、の話である。
そう、自分で死んだ、と思わなければ、10000年そこにとどまれるかもしれない。
そうすれば、この世での万が一のことが、一年続く計算になる。
それはそれで、良い。