思ってもみないことばかり。

「ほめる、認める、肯定する。」をモットーに、何もないおっさんになった自分が大喜利や日々のことを書きつづることこで変化していくさまを記録するブログ

『迷路』


久しぶりに降り立つ新宿駅は迷路だった。乗り換えのホームを探すのだが、どこから湧いて出たのかものすごい数の人朝の通勤ラッシュにぶつかり、それがよりどこに向かえばいいか、難解にする。
さらに渋谷はもっと難解な迷路みたいだ。
思えば、小さい頃は遊園地などに遊具として迷路はあった。ベニヤか何かで作られたもので、チェックポイントがあって。楽しかったと記憶している。
それが、大人になって駅や繁華街の迷宮化により、どんどん嫌いな存在になってしまった。
その場を目の前にすると、心は必ず、単線の田舎に持っていかれる。

しかし、ブームは、一巡したらまた一巡するものである。何年後、何十年後かにまた、迷路ブームが来て、今度は迷路は文化として残ることになるかもしれない。
そのブームが来るころはどういうことになっているのか。

まず、少子化に伴い、学校は今より子どもたちにストレスを掛けないようになり、校長の話の最中は予め作れられたベニヤ迷路を楽しんで良い、ということになっていることだろう。
校長の話は子どもたちにとっては全く無駄な時間になることだろうから、どの学校も教頭以下教員たちが校長との折衝をし、月一回の校長訓話のときは迷路を設置するのである。
また、文化として定着すると、駅トイレの大便器前が迷路化するかもしれない。
早く並んだ人はその迷路を通って確実に大便器の前に並べるし、あとから来た人も、ワンチャン前の人を抜かせる可能性がある。
公平である。
そのうち、街にエンターテイメントとしてのベニヤ迷路が出現し、会社帰りの飲み会の二次会で寄ることになり「部長!もう一軒、次、迷路行きましょう!」となり、そのうち大人の迷路が増え、行き止まりがピンナップ売り場になったりいかがわしい店をやってたりで、結局今までの繁華街と変わらないことになるのだが、それもまた良し、なんて言うことになるのだろう。

迷路は一定の知恵がなくてはいけないし、決断力がなくてはクリアできない。
なので、ベニヤ迷路再ブームに火がつくのは、高校生くらいのカップルが迷路に入りカッコよくてきぱきと進んでいく様に「この人、カッコいい。私も迷路になりたい」となり、迷路脱出後にすると成功する、という噂が広まる時なのかもしれない。