思ってもみないことばかり。

「ほめる、認める、肯定する。」をモットーに、何もないおっさんになった自分が大喜利や日々のことを書きつづることこで変化していくさまを記録するブログ

『麦茶』


この夏、あなたの生活に麦茶がない日はあっただろうか。
生活密着型飲料、それが麦茶なのである。

思えば小さい頃から、いついかなる時にもそばに麦茶はいた。
「何か味のある水分を取りたい」という人間の根源的欲求を満たすには、それは安く作れて、簡単だったのだ。
そんな家庭は、日本では9割を占めていたことだろう。朝起きてまず飲むのが麦茶、昼はヤム茶で、寝る前にまた麦茶というのがおおよそ平均的日本人の水分補給スタイルだと信じている。
そうした人の中ではもしかしたら、血液成分は麦茶と血が50:50になっていて、輸血じゃなく輸麦茶でも入れ替えたその時からそのパワーでもってアグレッシブな行動をいくらでも取れるくらいの気が起きる、という夢も、一度くらいは見たことがあるのではないだろうか。
そんな麦茶には、当然、長年培ったファンがついているはずだ。
麦茶グッズが売っていてもおかしくないはずだが、今のところキャラクター化しておらず、せいぜいそれはあの麦茶パッケージの鶴瓶くらいのものである。
まだ、世の中的にグッズ化されていないのなら、これは勝機ではないか。
麦茶のステッカー、麦茶のクリアファイル、麦茶のぬいぐるみ。
全て茶色の素材で作るだけでコスパ抜群だ。なんせ国民の殆どが小さいときから親しみのあるものだから、愛さずにはいられない。そのうちその愛はだんだんと大きく膨らむことで、いつしか麦茶温泉、麦茶庁、東京に麦茶ランド、麦茶経済圏なんてのもできてくるかもしれない。
そうして麦茶の生産量に供給が追いつかなくなり、みんなは潜在的に麦茶をいつでもどこでも欲し、国家の通貨が通液となり、支払いは全て麦茶払いとなっていく。大麦茶時代となり、麦茶流通は活発化し、長く低迷していた日本経済を救うのである。

しかし、通貨になるほど麦茶が作られまくられ、買ったり飲んだりと消費されまくられたからといって心の奥底からくるその麦茶への思いは、結局は家族との、主に母との思い出ということは忘れないで欲しい。

そういった面で見ると、その母への慕情は、どんなに流通価値を持ったって結局のところそんな麦茶は実際のところ、プライスレスなのだ。