思ってもみないことばかり。

「ほめる、認める、肯定する。」をモットーに、何もないおっさんになった自分が大喜利や日々のことを書きつづることこで変化していくさまを記録するブログ

『ボルト』


ボルトはボルトとして、単体でそのボルトらしさを認めてはもらえないのだろうか。
ハマるナットがあって、何かを固定すること、その部品としてのみの存在なのだろうか。
というのも、オイラが、その単体のボルトのようだからである。締めるべき場所は見つからない。どこにも受け入れられない。
今までの職場も、趣味の集まりも。
完成したそれらに、接着剤でつけるかのように完成形を見苦しくして、そこに融合できないことばかり。
なので、単体のボルトとして、何かできることはないか、そんなことを考えてしまうのだ。

しかし、ボルトはナットと噛み合って締めてナンボの部品であり、単体としては奇抜なタイプのオブジェにすらならない。
やはり、どこかの部品としてしか居場所はない。
そのボルトとしての安らぎの場所は、やはり、フランケンシュタインのこめかみ、であろう。
つまり、フランケンシュタインのようなモンスター的集団の中での首脳陣の横っちょに刺さっていることが、単体のボルトとしての安らげる場所、ということだ。
普通の集まりのようにボルトとしての役割を果たすようなしっかりとした仕事をしなくても、ネジ部分が大幅にでているようなアバウトなやりようで、そのモンスター集団の中に居場所を作るのだ。ボルトがボルトじゃなくていい場所は、そこにしかない。

ボルトはボルトでも電圧のボルトはいつだって派手な仕事をしているし、ウサイン・ボルトも華やかな活躍をしている。
漫画『NARUTO』の息子『BORUTO』も引き込まれる魅力がある。
どのナットとも合わない不良品のボルトのようなオイラは、そんな素晴らしいボルトたちを見ていると、「ナットに生まれていればよかった」、と、ナットへの嫉妬がだんだん膨らんでいってしまうのである。