思ってもみないことばかり。

「ほめる、認める、肯定する。」をモットーに、何もないおっさんになった自分が大喜利や日々のことを書きつづることこで変化していくさまを記録するブログ

『判別』


ときに判別しやすいことこそが、極上のサービスである。
某ドラッグストアのクーポンがある。
クーポン自体はとてもいいものなのだが、いかんせん商品のどこからどこがそのクーポン範囲なのかわからない。
例えば、『健康食品15%オフ』というクーポンがあったとして、青汁、サプリは健康食品、じゃあ、プロテインは?カフェインレスコーヒーは?と微妙な商品に対して、明確な判別がしづらいのである。
買ったあと、健康食品だと思って健康食品ではなく、割引が適用されなかった場合のショックは大きい。

思えば、判別しづらいことは世の中多い。
しかし、人は判別を求めるもの。「この人はこの人の恋人?愛人?」
「これって、今、俺、ハマチ食ってんのか、カンパチ食ってんのか?」「今って、ブランチ??ランチ?」わからないと不安だからだ。
なんとか人は判別をしようしようと意気込み、どんどん窮屈な世の中に向かっていってしまう。
判別させろの圧の中、自衛としての良いカモフラージュ方法がある。

それは、モザイクである。
モザイクがかかったようなメイクに、それに合わせた機械的にいじったような高い声や低い声。
これでテレビに出た時にはモザイクがかかって内部告発や裏社会の犯罪暴露などをしているように見えるが、実はメイクと発声法でした、本人でした、というのは誰も思わないだろう。
あいつ誰だ、とやっきになってビデオを解析しても、そこには誰も現れない。判別できない。
モザイクメイクをしてあるだけなのだから。

世の中を良くするために、判別の精度をあげる方向になっていくのはそれはそれで好ましい。
しかし、萩野でも荻野でもどっちでも良いような世界、お母さんが双子のニナ、ミナを呼んだとき、あやふや感を多分に表出し、ニナでもミナでもどっちが来てもどっちにも幸せな笑顔になるような、ぼやっと判別しないこともあるとホッとして、オイラは嬉しい。