思ってもみないことばかり。

「ほめる、認める、肯定する。」をモットーに、何もないおっさんになった自分が大喜利や日々のことを書きつづることこで変化していくさまを記録するブログ

『無茶』


無茶なんてナンボでもやってやる。
そうしてタコの踊り食いをしている人は多い。
若い頃は多少の無茶をしてもなんとかなったが、年をとるににつれそれをやめていくという風潮にある。
しかし、それでは年をとったら、家から半径たまに100mのスーパーと公園の行き来をしたり、孫が来ることだけ、ただそれだけを楽しみにただ縁側でお茶を飲みながらその365日のうちの4、5日を心待ちにして過ごすことになる。
年を取ったときこそ無茶をしないと、ただただ年月が過ぎていき、お迎えがくることになる。
そう、お年寄りには、無茶することが必要だ。
じいさんばあさん寒中水泳大会を絶対死なない配慮で開催したり、劇薬を飲んで髪をフサフサにしたり。
もちろん、スーパーと公園での往復などではおさまらずブレイブボードで隣町の姫子さんちの桃をかじりに行っても良いし、家で待つのではなく孫と同じサッカー教室に通い90分試合にフル出場しても良い。
ホットドッグ早食い大会に出場しても良いし、エキノコックスの予防をしないでルールールルル、とキツネを足元までなら呼んでも良い。
いくつになってもスリルを味わうのが長生きの秘訣になりそうだ。

しかし、そんなお年寄りもこれだけは無茶してはいけないというものがある。

霊界の覗きすぎ、である。
当然のことながら、覗きすぎると、今が、霊界なのか現実なのかわからなくなっきてしまうことがある。
「あ、今死んでる。」と思って幽霊的に生活しても、実は生きていて全然壁すり抜けられなかったり、ある人をうらめしく思っていても全然青い火の玉が自分のサイドに無く、手の甲だけしなだれさせて全然驚かせることができなかったり。
そうしてるうちに、霊界のほうから「ちょっと面白い存在だから」と軽い気持ちで永遠の命を与えられ、幽霊っぽい人間としてそのままずっと壁に激突したり、うらめしさがいつも心に宿ったままになってしまうのだ。

占い師が持っていた水晶玉や特殊な鏡、清らかな川、ふとした瞬間、霊界に対して無茶をしてしまえる環境が整っている場合がある。
けっこう無茶しているドラゴンボールヤムチャでもそんなに無茶はしていなかったはず。
ヤムチャのように自分のできる範囲での無茶を、今一度考えてみよう。