思ってもみないことばかり。

「ほめる、認める、肯定する。」をモットーに、何もないおっさんになった自分が大喜利や日々のことを書きつづることこで変化していくさまを記録するブログ

『血』


大谷翔平とオイラは、本当に体内に流れている血の色は同じなのだろうか。
それくらいの違いを感じるのだが、輸血のフリして彼の血液をサラリと拭き取りその血の色を確認しさらには検査をする、という訳にはいかない。
にしても、彼とは血の効能が同じには感じない。
そしてその人間的偉大さから、大谷翔平が血の色に赤を選んだらオイラはパステルグリーンを選ばなきゃならない、某格ゲーの好きな色の道着を取られたら色違いを選ばなきゃいけないような感覚を覚える。
みんな違ってみんな良い、血の色もそんなふうになれば、血の色が地球人とは違う火星人や未来人もその隠れた素顔を世に出すのではないだろうか。
しかし、世で『血』の有効活用はなされているのだろうか。
輸血はされている。その血のお陰で手術が施され、助かる命がある。それでいいように思える。
しかし、余すところなく血を使い切る、そんなふうな血の使い方を、オイラはしたい。

オイラが死んだときには、蚊にこの身を晒したい。
死んだ瞬間、その近辺に漂っている蚊をできるだけ集めて、オイラの身体から血を吸い取って欲しい。そうすることで、蚊は血を吸うことができて満足し、その周りにいた本来血を吸われたであろう人々は座れることなくその痒みのない幸せの状態をそのまま維持できるのである。
生きている間に役に立つことが少なかったのなら、死んでからその分役に立ちたいものだ。

血は、手術以外にも、必要なところには必要である。
血を血で洗ったり、血の池地獄に血を継ぎ足すと、血が足りなくなることもあるだろう。
そんなときに吹く強い風により偶発的に露わになる女性用下着は、地獄の使者が鼻血を出させかすめ取るために吹かせたものかもしれない。