思ってもみないことばかり。

「ほめる、認める、肯定する。」をモットーに、何もないおっさんになった自分が大喜利や日々のことを書きつづることこで変化していくさまを記録するブログ

『レッスン』


より伸びるレッスンの受け方は、少し変わった先生に受け持ってもらうことにあるかもそれない。
そういった先生は「そんなことする意味あるの!?」ということを平気でやらせようとする。
軟弱な男からの脱却のために「真剣付扇風機」から水晶玉を取るような訓練をさせたり、手打ちうどんを上手に打つためにダンスダンスレボリューションをさせたり。
そんな一風変わった教えが、人によっては功を奏することもある。
かつて、はるか昔より様々なレッスンがこの世にはあった。
歌やダンスはもちろん、あくびやいびき、早口言葉のレッスンなどもあったというふうに聞き、さらにはヲタ芸、TPOに合わせたスカしっぺのレッスンなどもあるみたいだ。
レッスンを受け待つ先生たちは、ただお金をもらえるからといって、適当に教えることはしない。生徒一人ひとりに対して、きちんとそれができるようになるまで情熱を持って教えきることだろう。
また、どんないい加減な生徒がきても、先生である以上教えない訳にはいかない。
ときには心を鬼にして、強い口調で教えることがあるかもしれない。
しかし、そんな先生たちの中には、鬼になりきれない人達もいるだろう。
そういった場合、鬼になるレッスンというのが存在する。
この世に地獄がない以上、地獄以外での場所でそれは行われるが、それはどんな場所でだろうか。

でん六』本社である。
小さい時、うぐいす豆のあの甘じょっぱい味に感動した人も多いのではないだろうか。
その『でん六』には、鬼の面がたくさんあるのは皆さんご存知の通り。
節分の日にその面をかぶると、毎年家の中で鬼になってしまうのは、何かしらの魔力がはたらいていると考えて良い。
その力の源はやはり、地獄との接点があると見ていいだろう。
もしかすると、あの販売している豆についている鬼の面は、本物の鬼のデスマスクなのかもしれない。
そんな地獄とのツテがある『でん六』本社だからこそ、3時間ほどのセミナーを終えただけで、気弱だった音大出のピアノの先生が、鬼の形相で教室から出てくるのである。

鬼にもなれるようになった、レッスンティーチャー。
褒められて伸びる今の時代には合わないかもしれないし、オイラだったら確実に直ぐそのレッスンを受けなくなるだろうが、彼らは教える仕事がなくなっても大丈夫だろう。
レッスンを受けた彼らは、きっと地獄の門番に再就職しやすいはずだから。