思ってもみないことばかり。

「ほめる、認める、肯定する。」をモットーに、何もないおっさんになった自分が大喜利や日々のことを書きつづることこで変化していくさまを記録するブログ

『行列』


行列の対価が釣り合わない場合が多々ある。
何時間もラーメン屋の行列に並んだ挙げ句、麺微妙、スープ微妙、店員微妙、値段だけが『妙』な店だったとき、人というのは時を戻して他のラーメン屋に並びたくなる。
せめて、ハーメルンの笛吹きのような楽しい行列であればその行列に身を置いていられるのだが、現実は苛立つお客ばかりで殺伐としているように感じる。
『10周年記念で一杯500円』とか『先着50名様まで無料でサンマ配布』とか、食べられない人の不幸せを創り出していないか。
疑問である。

たまに、行列に並んでいる人の中に、目をつぶって何かを感じ取ろうとしている人物を見かけることがある。
少しでも眠ろうとしているようでもあるし、なにかに我慢している修行僧のようにも見える。雨風が吹き付けても、その人だけは並んている、そんな気がするその『僧』にすら、結果食べたラーメンが微妙のときは訪れる。
その悲しみを、免れることはできないのか。

それは、托鉢である。
目をつむりながら、お椀を持ち、なにやらぶつぶつと言ってみよう。
当然、お金は集まる。
しかし、それだけではない。
あまりにそのぶつぶつ言ってるのがありがたかった場合、そのお椀に店からお試しラーメンが施される可能性が出てくるのである。
その施されたラーメンの味で、この行列に並び続けるか抜けるかのジャッジをすれば良い。
托鉢とはもともと、食料を乞う行いなのだ。

毎年iphoneの新作が出るたびに行列ができるのだが、最近は列が短くなったという。
それであれば、もしアップルストアがiphone15のパーツを少し施すことで、今持っているiphone14がiphone15になるのなら、お椀を持った修行僧で行列の長さは倍になり、またストアの前は盛り上がりを持続させうるのかもしれない。