思ってもみないことばかり。

「ほめる、認める、肯定する。」をモットーに、何もないおっさんになった自分が大喜利や日々のことを書きつづることこで変化していくさまを記録するブログ

『empty』

 

空間、「ない」ことの重要性は多々ある。
目の上のたんこぶがいないからこそのびのび仕事に集中できるし、話をするときも少し『マ』をいれることで相手もその『マ』の中でこちらの言いたいことを感じ取ることもある。
『空いている』ことは大切だ。
しかし、やはりその空きにはいろいろ自分に不都合なものが埋まる場合もある。
いつもテンパっている先輩や、四角四面な喋り方をする上司など、今一番ナチュラルに来てほしくないものがその空いているところに来るのだけは避けたいのだが、これはいかに望んでもどうしょうもないところだ。
そうなると、「そもそもそこは空いていないんじゃないか」と思いたくもなる。
苦手な人が来てほしくなさすぎて、そこに誰かいるのかいないのか、わかりたくもなくなる思考回路になってしまうのだ。
その時、何がそこにいるかもしれないと思うことが多いのか。

悪魔、ということがある。
その席に嫌なアイツが座らないためには、その空席に対する「悪魔の証明」が必要だ。 悪魔がそこに存在すれば、「そこは悪魔が座っているので座れませんよ」ということになり、苦手なソイツはその近くの空席に座ることはなくなる。
もし、その気の合わない奴が「悪魔なんていないじゃないか」と宣うのなら、「じゃあ、そこに悪魔がいないことを証明してください」という無敵の論理を突きつけてやればいいのだ。
これでも座るのなら、「あなたが悪魔ってことなんですね!」と、恐れおののいてその席から離れることで、結果的にその嫌なヤツと同席することは避けられるというものだ。
そんなことをしているうちに、コイツに何を思われても良いという強い気持ちが生まれてくるのは『空いている』流れからの副産物であろう。
空いている、つまりemptyは、自身の成長を促してもくれるのである。

個人的には今現在emptyなものの中には、悪魔より、『ハンプティ・ダンプティ』をその空いてる部分に埋め込みたい。
あの、『空っぽの殻』が、より安心につながっている気がするのだ。