思ってもみないことばかり。

「ほめる、認める、肯定する。」をモットーに、何もないおっさんになった自分が大喜利や日々のことを書きつづることこで変化していくさまを記録するブログ

『しらす』


しらすとは、色々な種類の稚魚の総称ということを知ったときにゃ、衝撃を受けた。
なぜなら、今まで100gあたりの価格を調査して安いところで買っており、ただ単に店側のさじ加減で値段を決めていたように思っていたのだ。
レアな稚魚たちがいるということである。
しかし結局うちでは家計を切り詰めないように安く買ったそのシラスたちなのだが、いつも思うことがある。
まず、やたらと目が合うこと。
目が合うのは、どんな種類の稚魚でも関係はない。
みんなでオイラのことを見てくるような気がして、それは彼らのクラブ活動なのかと思うほど、みんなが決まりきった行動を取っているように思えてしまうのだ。
ただ、この中に入っている2ミリ位のタコやエビにはその気配を感じないが。
そして、もう一つそこで気になったのは、「では彼らはオイラたちを見るのではなく何かほかにその眼差しを向ける方が良かったのか?」ということだ。

「わかめ」である。
彼らが急に知らない土地で知らない場所につれてかれて湯で挙げられて、さらにトラックに運ばれて知らない場所を転々としている状況で心を見失わないためには、生きていた頃に何気なく通り過ぎていたわかめを探すべきだった。
何も本物でなくてもいい、黒のビニールテープ、モスグリーンのクリアファイルなど家の中でわかめと思えるものに目が向いていたなら、「あ、こいつら故郷に思いを馳せているな」と思うことになり、「目が合った」とやたら意識される可能性も減り、いくばくか供養や感謝の念も強くなり、人の口に運ばれる様子を、彼らの死後たどり着く『おさかな天国』まで微笑みながら送り出すことができるのである。

我々人間はたくさんの別の命をいただいて豊かに生活をさせてもらっている。
しらすたちの目をしっかり見て一匹一匹真剣に感謝の念を込めて口に入れるのか。
はたまた、「ふえるワカメちゃん」をふやかしたりして、しらすたちに生前の楽しかった生活を思い起こさせようとすのか。
どういった方法が贖罪になるのかは、我々が死んだあとにお白州で裁かれる日まで、わからないのである。